感性文化学入門

21世紀の新たな身体観を求めて

感性文化学入門

本書は、感性文化学で重要視される姿勢を大学生や社会人に伝えるべく企画された、哲学・思想学のテキストである。

著者 石塚 正英
ジャンル その他
出版年月日 2010/02/01
ISBN 9784501625108
判型・ページ数 A5・112ページ
定価 本体1,500円+税
在庫 在庫あり

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感性文化とは、羞恥、威厳、礼儀、装飾といった文化的な観念をさす。文明の発達とともに人類はさまざまな人工物を生み出し、人工物に囲まれて生活するようになり、「感性文化」を育んでいった経緯がある。現在、われわれは周囲すべてを人工物に囲まれて生活しているが、人は人工物のみで生き抜くことは到底できず、心的・物的パートナーとしての自然との共存なくしては生存できない。本書は、感性文化学で重要視される上記のような姿勢を大学生や社会人に伝えるべく企画された、哲学・思想学のテキストである。

 人は生まれた瞬間からさまざまな人工物に囲まれて生活している。衣服や住居,都市など。裸の自然など私たちの身の回りには存在しない。無垢の自然は,じつは私たちの感性にマッチしないのである。私たちは自然を何らかの方法によって心地よい方向に加工してきた。それを通じて私たちの感性も豊かなものに成長してきた。自然感覚から文化感性への移行である。衣服などは文字どおり自然感覚から文化感性の対象へと変化してきた。すなわち,クロマニヨン人と称される4?5万年前頃の人類は,身体の保護と体温調節(自然感覚)のために木の葉や獣の皮をそのまま身につけて衣服としていた。その後文明が発達するとともに,人間は毛皮や樹皮から繊維や布をつくりだした。また,羞恥,威厳,礼儀,装飾などといった文化的な観念(文化感性)を育むに従い,衣服は生物的な領域を超えて文化的な領域へと,着用の目的を広げていったのである。
 人工物は,身の周りから身の内へと,さまざまな様態で身体の中にまで入り込んできている。体内に取り入れる食物などはごく自然なものだが,なかには義肢,義眼,人工臓器,ICチップ(マイクロチップ)というかたちで入り込んでくる。あるいはまた脳波や筋電位,指静脈や網膜などをID認証に使用している。その結果,私たちは自分の身体でありながら,これを取り替え可能なモノのように感じ始めている。あきらかに身体観が変容しつつあるのだ。
 変容してきたのは身体観のみではない。自然観についても同様の指摘ができる。たとえば文化人と科学者と信仰家では,自然観は次のように相違するかもしれない。文化人にとって「沃土・清水・涼風」は,科学者にとって「窒素・炭素・水素・気圧」だろうし,信仰家には「地神・聖水・神のいぶき」だろう。私たちは、そうした多様な価値観・感性のアンサンブルの中で生活してきたのだが,ここへきて人は,自然について,その中で生きるのではなく,それをいかようにも改造できるものと考え,はなはだしきは,自然を新たに自在につくりだせると思い始めているのである。
 ところで,環境問題が深刻化して久しいこんにち,人と自然との共生は21世紀を生きる私たちにとって不可避の課題といえる。そのためにはまた,自然観の再検討を迫られることになる。つまり,自然とは,これまでのように経済収益・収奪の対象でなく,人びとの身体や生活圏とのあいだでの還流を旨とする存在だということになる。その点を考慮すると,私たちはかつて各地の村々や里山に根づいていたアニミスティックな自然崇拝・儀礼民俗・祭礼神事にいまいちど思いを寄せることになる。それは,伝統的な意味ではところどころのさまざまな神々とのあいだで執り行われるコミュニケーションであったし,その神々とは大半が自然(太陽神など)か庶物(竈神など)であった。また,崇拝の目的は,自然の力に対して何かご利益を祈願するというよりも,災い(祟り)を和らげたり回避したりするための信仰民俗であった。そのような生活概念について私たちは,これを信仰民俗として再建するというよりも,感性文化として再構築しなければならないであろう。
 「自然感覚から文化感性へ」あるいは「感性文化」をキーフレーズとする本書は,次のような構成・内容をもっている。
 第1章「身体行為としての儀礼」では,人間が動物(自然的存在)から人間(文化的存在)になる契機を自然物の神格化に見いだす。その昔,人びとは樹木から石塊,太陽や星を神とみなす目的で身体を動かし声を出し,身体行為としての儀礼を執り行った。この行為を通じて人びとは「自然感覚から文化感性へ」移行し「感性文化」を構築していったのである。感性文化は何よりもまず宗教的世界へ形成されたのである。
 第2章「関係論としての色彩論」では,人はたえず自然物(美しい花)を通じて色彩(花の美しさ)を養っているはずだが,ときにその関係が逆転する点を問題とする。ややもすると本物=自然を見なくなるのである。「自然感覚から文化感性へ」の行き過ぎが原因である。人はときに「文化感性から自然感覚へ」の反転を実現しなければ自然との共生はおぼつかない。
 第3章「記号図像の哲学思想」では,事物や物事には実体観念(感性観念)と関係概念(関数概念)が備わる点に注目する。たとえばゴールドには鉱物(自然物=実体)と価値(商品=記号)が備わっている。記号は別の見方をすれば情報であるから,実体と記号=情報の関係は実体のほうをバックにおいて見ていく必要がある。記号図像=情報の意義は,そのような実体と関係のクロスした座標に存在するのである。
 第4章「始まりとしての八分休符」では,ベートーヴェン第五交響曲の始まりに八分休符が置かれている点を問題にする。「運命」交響曲はなぜ始まる前に休むのか,あるいは,なぜ休むところから始まるのか。あの「ウッ・ダダダダーン」の「ウッ」は聞こえない。「ダダダダーン」は扉を叩く自然音である。「ウッ」の前に自然(野音)があり,「ウッ」のあとに文化(楽音)があるのだということ。耳の聴こえない作曲家ベートーヴェンの感性は,自然の中を散策しつつ全身で素材を拾い,感性音楽を構築したのである。
 以上の予備的解説をもって本論へのいざないとしたい。
 なお,本書は東京電機大学学術振興基金の援助を得て刊行されたことを申し添えておく。
第1章 身体行為としての儀礼
 1.1 儀礼の第一類系あるいはフェティシズムの儀礼
 1.2 儀礼の第二類系あるいはイドラトリの儀礼
 1.3 第一類計的儀礼の起原
 1.4 第一類計的儀礼の文学
 1.5 現代に生きる第一類計的儀礼
 むすび
 補論 心身を貫く通奏低音としてのフェティシズム
 1.6 一木彫仏像の原初性
 1.7 鎌倉仏教の雑修的ダイナミズム
 1.8 通奏低音としてのフェティシズム
第2章 関係論としての色彩論
 2.1 ア・プリオリとア・ポステリオリ
 2.2 文化でみる色
第3章 記号図像の哲学思想
 3.1 フェティシュ(具象神)とイドル(偶像神)
 3.2 シニフィエ(記号内容)とシニフィアン(記号表現)
 3.3 実体(感性的)概念と関数(数学的)概念
 3.4 アクチュアル(現勢態)とヴァーチャル(潜在態)
第4章 始まりとしての八分休符
 4.1 耳の聴こえない作曲家
 4.2 自由の革命という時代
 4.3 第五交響曲「運命」第一楽章第一小節
 4.4 休止から始まる意味
 4.5 ゼロの歴史知的概念
 4.6 自然の音・人工の音,その表現方法
 4.7 文芸に語り継がれた音文化
 4.8 身体に刷り込まれた=声の文化
あとがき
索 引

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