聾の経験

18世紀における手話の「発見」

聾の経験
著者 ハーラン・レイン
石村 多門
ジャンル その他
出版年月日 2000/10/01
ISBN 9784501618209
判型・ページ数 4-6・452ページ
定価 本体3,100円+税
在庫 在庫あり

この本に関するお問い合わせ・感想

 啓蒙思想の花開いた18世紀後半は、聾教育と手話にもまた明るい日の射し始めた時代であった。本書に収められた7編のテキストは、その1764年から1840年の間にフランスで書かれたものである。百年を経ずして再び口話主義の暗黒に戻る運命の下、それらは先駆的であり、論争的であり、また思索的であり、愛情溢れるものであった。
 聾者たる自分の思想生活を仮想の手紙形式で書いた、フォントネイの自伝(第1章)。パリの町で貧しくも自活していた聾者デロージュが、口話主義を論駁し、聾社会で用いられていた自然手話を擁護した小冊子(第2章)。聾教育史上、最も有名なド・レペ神父の著作から、教育者としての立場を述べた部分と、「方法的手話」で複雑な文法を説明する佳境を抜粋した第3章。その「方法的手話」を批判したシカールの教程本(第5章)は、多くの瑕疵を抱えながらも、実践的で生き生きとした教育の現場を目の前によみがえらせる。

●訳者まえがき
 本書は、"The Deaf Experience: Classics in Language and Education", edited and with introduction by Harlan Lane, translated by Franklin Philip(Harvard Univ. Press,1984)の全訳である。18世紀フランスで手話による聾教育を創始した人々と聾者自身による、自伝や教育実践記録・聾教育史研究などの古典を集めたアンソロジーである。
 訳者が、本書の訳出を志したきっかけは、1995年に日本で表明された「ろう文化宣言」の衝撃である(『現代思想』3月号)。訳者は、不明にもそれまで、日本手話と日本語対応手話の違いを知らなかった。NHKの手話講座などで通常用いられている日本語対応手話は、日本語の文章を日本語文法に合わせて手指のサインに置き換えた、人工的ないわば中間言語であるのに対して、聾者の母語である日本手話は、日本語とは異なる固有の文法組織を持った独立した言語であり、日本語と同等・対等な一個の自然言語なのである。
 手話のこの言語的な独立性は、聾者自身の主張によって、18世紀には広く知られていたのである。にもかかわらず、その後、聾者に発声と読唇を強いる口話主義(oralism)が支配的となるにつれて歴史の闇に追いやられ、手話について語られる際も、せいぜいが音声言語対応手話のみが問題とされてきたのである。口話主義は、聾者が障害者であるとの先入観から出発し、多数派である聴者の文化と言語に同化を強制する行為を「善意」だとして自認してきた。その下で、手話の使用は禁じられ、聾者は自立的文化の一員であるどころか、自立を欠いた「障害者」としての自意識を強要されてきたのである。それは、戦前の日本が朝鮮人や台湾人に母語の使用を禁じ、民族としてのプライドを毀損した同化主義に等しい振舞いと言えよう。
 手話の言語的固有性がようやく「再発見」されたのは、1960年代のアメリカであった。そして、日本では、木村晴美氏と市田泰弘氏の「ろう文化宣言」によって、はじめて手話の固有性と聾であることが障害ではなく文化であることの意味が広く知られるようになった。今回、この日本語版の付録として、木村・市田の両氏に「ろう文化宣言以後」と題して、この五年間を回顧する文章を寄稿して頂いたことは、訳者の無上の喜びである。
 この手話主義vs.口話主義の対立の歴史については、早速にも、本書の編者レイン氏の序論をお読みいただきたいが、本書に収められた著作群が著わされた 18世紀後半から19世紀前半の時期は、手話の黄金時代であった。ド・レペ神父が、初めて公共的な聾教育を開始したとき、彼が用いたのは、フランス語対応手話ともいえる「方法的手話」であったが、その後、聾者自身によって自らの自然手話についての自覚が高まる。それが口話主義へと逆転したのは、帝国主義が勢力を張り、社会ダーウィニズムが思潮を支配した19世紀後半のことである。その絶頂とも言えるのが、ベルの優生学的論文「聾者という人類の変種の形成に関する覚え書き」である。この日本語版では、この論文の一部を付録として訳出した。そこに記された誤謬や偏見を含めて、口話主義の優生思想の歴史的記録として参考に値すると考えたからである。日本では、電話の発明者でかつヘレン・ケラーの庇護者として知られるベルのもう一つの側面が明らかとなろう。
 編者のハーラン・レイン教授は、世界的に著名な言語心理学者であり、邦訳としては既に、『アヴェロンの野生児研究』(中野善達訳、福村出版、1980)がある。この他に、聾教育史研究の決定版ともいえる大著『心が聞くとき』(1984)や『アメリカ手話学の近況』(1980、共著)などがあり、また、世界で唯一の聾者のための大学であるギャローデット大学で、聴者の学長を更迭し、聾者の学長を初めて選び出した1988年の紛争の時期には、同大学で客員教授を務め「デフ・パワー」の渦中の人となった。さらに、健常者と障害者の関係を社会学的に論じた『善意の仮面』(1992、第2版1999)がある。
 訳文は平易を心がけ、本来はフランス語で示すべきところも英語で表記している箇所がある。しかし、著者のハーラン・レイン氏とギャローデット大学図書館長ウルフ・ヘドバーグ氏のご厚意により、フランス語原典を入手し、参照することができた。仏文との対照には、名古屋市立大学の寺田元一氏(フランス思想)の協力を得た。氏は、共訳者ともいえるほど懇切な校閲を行なって下さった。無論、なお残る誤り等については石村の責任である。編集には東京電機大学出版局の徳富亨氏の手を煩わせた。以上、各位に深甚な感謝を表したい。また、目次の解説・年表の増補・概念図・索引の解説も訳者の意思で日本語版に追加したものである。本訳書を、歴史に名を残さなかったろうの人々に捧げたい。音も文字もない中でものを考え続けた彼らのことを思うとき、哲学する勇気が鼓舞される。
2000年10月

石村 多門
序論 ハーラン・レイン
第1章 フォントネイ『**嬢宛ての手紙』[1765]
第2章 デロージュ『ろう者の意見』[1779]
第3章 ド・レペ『真の聾唖教育法』[1784]
第4章 マシュー『自伝』[1800]
第5章 シカール『先天聾の教育課程』[1803]
第6章 ベビアン『ろう者と自然言語』[1817]
第7章 ベルティエ『ろう者??ド・レペ神父以前以後』[1840]
[付録] ベル『聾者という人類の変種の形成についての覚書き』[1883]
[特別掲載] 木村晴美・市田泰弘「ろう文化宣言以後」

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