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出版局長だより  (第28回)

シアトル・ポートランド旅行記  その10

今日はシアトル滞在最終日なので、できることは全部やっておかなければなりません。

スペース・ニードル

最初にシアトルを象徴するスペース・ニードルに行きました。スペースニードルは、1962年にシアトルで開催された国博覧会の時に建てられたものです。シアトル市ブロード・ストリート400番地(400 Broad St, Seattle, WA)にあります。

『ハード・ドライブ』(邦訳』ビル・ゲイツ』)の冒頭に紹介されていますが、ビル・ゲイツは1966年、聖書のマタイ伝第5章から第7章の「山上の垂訓」を暗唱した御褒美として、デール・ターナー牧師からスペース・ニードルの最上階にあるレストランに招待されました。私はビル・ゲイツが「山上の垂訓」を暗唱したことは『ビル・ゲイツ Ⅰ』13頁に書きましたが、スペース・ニードルのレストランのことは、うっかり書き洩らしてしまいました。

朝、早く行かないと、行列ができて1時間以上も待たされることがあると聞いていましたので、早くに出かけたところ、空いていて、すぐに登れました。ただこの高速エレベータはあまりに高速で、高さ158メートルの展望台に着いた時は、軽い眩暈を感じました。椅子に座って休みました。

落ち着いた所で、展望台を何周かして、シアトルの街を展望しました。レイニアー山も良く見えます。

ビル・ゲイツが御褒美にご馳走されたレストランのスカイ・シティ・レストランは、展望台より1階下にあり、階段で降りて行きます。非常に人気のあるレストランで、昼食も予約が一杯で、残念でした。降りる時のエレベータでは、特に眩暈も感じませんでした。

1階が御土産コーナーになっているので、太い針金細工のスペース・ニードルを買いました。一番大きいのを買ったので、どうやって持って帰ろうかと多少心配にはなりました。日本に持って帰ってから、白いペンキをスプレーかけしました。うまく塗れたと思います。

クロンダイク博物館

次にクロンダイク・ゴールド・ラッシュ シアトル・ユニット国立歴史公園(長いのでクロンダイク博物館と呼ぶことにします)を訪ねることにしました。クロンダイク博物館は、ワシントン州シアトル市S2番アベニュー319番地(319 2nd Ave S, Seattle, WA)にあります。

1897年にシアトルはアラスカのクロンダイクのゴールド・ラッシュ熱に取りつかれます。前年の1896年カナダのユーコン準州のクロンダイク川の支流のボナンザ・クリークで金が発見されたのです。シアトルはクロンダイクへの拠点として非常に繁盛しました。この博物館の展示を見ると、当時の人達の熱狂的な金への執着が理解できます。

アラスカのノームの金鉱

アラスカの金鉱はいろいろな悲喜劇を生みました。

またビル・ゲイツから遡ること4代の初代ビル・ゲイツも1899年にアラスカのノームに金鉱が発見されると、一家を率いてノームに行きました。『ビル・ゲイツ Ⅰ』2頁では、多少疑問を持った書き方をしていますが、ビル・ゲイツの父親のビル・ゲイツⅡ世が書いた『ショーイング・アップ・フォー・ライフ』という本を10月初旬に読み終えますと1900年頃、初代ビル・ゲイツ一家はアラスカのノームにいたそうです。

厳密に言うと、1900年の人口統計調査のワシントン州キング郡シアトル市ワード・ストリート9番地(9 Ward Street, Seattle, King County, WA)にいたという結果とは整合性が取れない部分があります。

ビル・ゲイツⅡ世によれば、当時8歳のゲイツⅠ世は家計を助けるために、寒風吹きすさぶノームの路上で新聞売りをして家計を助けていました。ビル・ゲイツⅠ世は1981年生まれですから、8歳となると1899年にアラスカのノームにいたことになります。この辺の年齢については多分曖昧なのだろうと思います。

一方、父親の初代ビル・ゲイツは金鉱掘りに夢中になっていたようです。原著12頁によれば初代ビル・ゲイツは家族を放り出して金鉱石の選別(Panning for Gold)をしていたとあります。金鉱掘りに物品を販売していたというより、自ら金鉱堀りに夢中になっていたのだと思います。

また同書によれば、ゲイツⅠ世は、家族の生活を支えるために中学2年生の時に学業をあきらめたそうです。そんな理由で、後のゲイツ一族は、初代ゲイツを数に入れないのだろうと思います。変だと思っていました。

パイオニア・スクエア

パイオニア・スクエアはシアトル市イエスラー・ウェイ100番地(100 Yesler Way, Seattle, WA)にあります。ここには普通の観光案内書には必ず載っているトーテム・ポールやセルス酋長の胸像があります。

シアトルの先住民族(インディアン)の酋長の名前は、セルス(Sealth)でしたが、発音しにくいのでシアトルとし、それが1853年に地域の名前になりました。そのうち白人と原住民の間で次第に抗争が生じ、殺人事件も起きて、一八五六年、セルス酋長一族は、ピュージェット湾の西岸のスカーミッシュの居留地に強制移住させられました。追放されたのです。

パイオニア・スクエア・パークと総称されるシアトル発祥の地の、この辺はあまり治安の良い地域ではありません。再開発が問題になっています。

パイク・プレイス・マーケット

海岸沿いに0.7マイルほど北西に進みますと、パイク・プレイス・マーケットがあります。ここに行く途中でDUKWという1942年に登場した米軍の水陸両用車を白塗りのバスに改造した車を見ました。たしかアイルランドでも走っていたような気がします。70年以上前の水陸両用車が今でも走っているのには驚かされます。ゼネラルモーターズの基本設計が良かったのでしょうか。帰国後このDUKWが追突事故を起こしたというニュースを見ました。

パイク・プレイス・マーケットには少し出遅れたので、道路での駐車スペースが空いていません。急な坂に停めるのも嫌なので、残念ながらグルグル何周かして見て諦めました。

シーズのチョコレート

パイク・マーケットからシェラトン・ホテルの方に向って、次にシアトル市4番アベニュー1518番地(1518 4th Ave Seattle, WA)にあるシーズのキャンデイズ・チョコレート・ショップ(See’s Candies Chocolate Shops) を訪ねました。シアトルとベルビューには、ノードストロームとシーズのお店が同じように近くにあるので、どちらかはっきり覚えていないのですが、1990年代にベルビューのマイクロソフト本社をNECのT専務、マイクロソフトのF会長と訪ねました。

その時、シーズのキャンデイズ・チョコレート・ストアを私が見つけました。すると、何事にも一家言あるF会長が、チョコレートは絶対にゴディバと主張して、「要するに米屋の羊羹か、中村屋の羊羹かということでしょう」と言いました。
全く分からないので、T専務に「今の発言分かりますか?。虎屋の羊羹と中村屋の羊羹なら分かるんですが」と私が言うと、T専務も「分かりません」と苦笑されておられました。

なつかしい思い出にシーズのチョコレートを買いました。

メイシーズ

次に、10個以上のマグカップとスペース・ニードルの模型を持って帰るために、トランクが必要です。メイシーズがすぐ近くなので、トランクを買いに行きました。5割引で大きなトランクが買えました。自動車に積み込んでホテルに帰りました。

アクアというレストラン

夕方まで荷造りしたり、休んで、夕食はアクアというレストランに行きました。家内がデルタ航空の機内誌で見つけてノートしていたのですが、機内誌の記事は記事広告の場合があって嫌だと言いました。
しかし、考えてみると、あまりどこにも行っていません。これはひどかったかもしれないと反省し予約を取って行く事にしました。

サンフランシスコには1つ星のアクアというレストランがあった事があり、友人に連れて行ってもらったことがあります。でもあそこは閉店になったはずだし、関係があるのかなと首をひねりました。
予約は取りましたが、所在地をストリート・ビューで見ると、どうも腑に落ちません。こんな辺鄙な所にまともなレストランがあるのだろうかと首をひねりました。

タクシーに乗ると、メーターも倒さず、20ドルを要求されました。1.4マイルで20ドルはひどいと思いましたが、黒人の強そうな運転手で、かなう相手でもなく仕方なく払いました。サンフランシスコでも同じ目にあったことがあります。
さて着いた場所にはレストランなんてありません。人に聞いてみると、駐車場の横だと言います。変だなと思いました。結局、その駐車場の奥に入口がありました。

中に入ると、外から見たほどひどくはなく、仕方がないかと思いました。料理の味はそう悪くもなく、まあまでした。お客さんを見ていると、その内、ここは主にツアーの団体客相手のレストランらしいと気が付きました。

最悪だったのは、帰りのタクシーを呼んで欲しいと言うと、サービスで送迎車がありますというのです。それは良かったと思っていると、しばらくして、送迎車の都合がつかないので、タクシーを呼びましたと言われました。
外へ出るとタクシーなんかいなくて、いくら待っても来ません。外に立っているボーイに聞くと、これからタクシーを呼んであげようかと言うのです。

これは駄目だと思って、駐車場の横を抜けて表通りに出ました。タクシーは全くつかまりそうもありません。歩いて帰ろうかと言うと、ハイヒールを履いている家内は1.4マイルなんてとても歩けないというのです。もっと暗くなってきたら最悪です。
ただ偶然1台のタクシーがやってきたので、つかまえて乗りました。ホテルまで12ドルでした。なんという出鱈目な国だと思いましたが、しかし日本だって同じようなものじゃないかとあきらめました。

ともかく、なんとか無事、帰還できたのだから、まあ良かったと思わねばと思いました。やはりレストランは信用できるガイドブックから、交通の便の良い店を選ばねばというのが教訓です。

生牡蠣事件

ホテルに帰って、ほっとしていたら、家内が生牡蠣に少し当たったらしく、軽い腹痛を訴えたので、慌てて、ロビーの売店に行って薬を探しました。シャンペンとお酢では消毒にならなかったのでしょう。
売店の女性に相談したのですが、それらしい薬はないので、夜のシアトルの街に飛び出して行き、薬を探しました。塩分の入ったスポーツ・ドリンクでも代用できるという話も聞いたことがあるのでそれも探しました。

ホテルからあまり離れない範囲で最大限さがしましたが、夜ですし、なかなか見当たりません。その内、家内からちっとも戻って来ないから心配だと電話が来ました。戻った方がいいと思って戻りました。
後で考えれば、ホテルのカウンターで相談する方法があり、お医者さんだって呼んでもらえるし、旅行保険には入っているのですから心配はなかったのですが、その知恵が出てきませんでした。

ただ何回か旅行中ツアーの人が病院に行ったり、お医者さんにかかったのを見ていますが、それはそれでまた大変でした。

トラブルと言えば、ホテルの部屋でも気に入らなければ代えてもらえばよいという話もあります。でも、その交渉も大変で、空き部屋はないと言われたり、移った先がまた駄目とか、荷物の移動が大変とか、優秀なツアー・コンダクターでもいないと苦労します。
トラブルに遭遇するとツアーはいいなと思います。

幸い、家内の腹痛はしばらくしておさまり、ほっとしました。私は1人で旅行する時は、たとえばロンドンのヒースロー空港で生カ牡蠣をとシャンペンで流し込むのを楽しみにしていますが、やはり最終日だからといって生牡蠣のような海産物は食べてはいけないと反省しました。

(続きます)