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出版局長だより (第20回)

出版局長だより (第20回)

シアトル・ポートランド旅行記 その2

レッドライオン

翌朝、朝御飯はレッドライオンのヨナというレストランでとりました。ぱっとしないレストランだなと思いましたが、家内が「せっかく来たのだから一度くらいは、ここで朝食をとってみたい」と言うので、それももっともだと思い、朝食に行きました。可もなく不可もなく、値段もリーゾナブルでした。

実は、ここがとんでもなく重要な場所であったことに最初は気がつきませんでした。何気なく撮った写真を見ると、ヨナの入口のドアーには、「ヨナのレストランとバンケット&会議室へのメイン・エントランス」と書いてあります。分かりにくいのですが、ヨナの廊下を右側に進み、左に折れるとバンケット&会議室があるのです。平屋ですし、とてもレストランの裏側にバンケット・ルームや会議室があるとは思えないのです。

何か役に立つかもしれないと念のため、ホテルのカタログの写真を撮っておいたものがあって、それを見ると、次のような部屋があります。ワシントン湖周辺の地名をとって部屋の名前にしてあります。
  ・レイク・ワシントン・ボールルーム
  ・エバーグリーン・ポイント
  ・ハンツ・ポイント
  ・ヤロー・ポイント
  ・メディナ
  ・ニューポート
  ・サハリー
  ・ラベンナ
レイク・ワシントン・ボールルームは、エバーグリーン・ポイント、ハンツ・ポイント、ヤロー・ポイントを合わせて続き部屋にした場合です。

ポール・アレンの『アイデアマン』の邦訳347頁を見ますと、1981年4月10日、ベルビューのレッドライオンでマイクロソフト創立以来の全社会議が開かれたとあります。

また私の『ビル・ゲイツ Ⅰ』の382頁にありますように、マイクロソフトは1983年9月、マルチプランの苦戦を直視せざるを得なくなり、ビル・ゲイツは、マイクロソフトの主要なメンバーを、ベルビューのレッドライオン・ホテルに召集し、ブレイン・ストーミングを行なうことにしました。

したがってマイクロソフトは1983年当時までは、レッドライオンでしばしば歴史的な会議を度々開いていたのです。

1999年に出版されたポール・アンドリュースの『How the web was won : Microsoft from Windows to the Web(ウェブはいかにして獲得されたか マイクロソフト:ウィンドウズからウェブへ)』(邦訳なし)の17頁には、概略次のようなことが書いてあります。

1983年、サン・マイクロシステムズのビル・ジョイは、ユニックス(Unix)のネットワーク上でMS-DOS上で走るようなプロトコルを共同開発しようともちかけました。これに対し、ビル・ゲイツは断固として断りました。IBMに対する配慮もあったでしょうが、「われわれは、まだ小さな会社で、この仕事を見る副社長や、あの仕事をみる別の副社長などいないんだ」と言ったといわれています。

現在のレッドライオンが1980年代のレッドライオンと同じかどうかは分かりせんが、レッドライオンに行ってみるど、MS-BASICやMS-DOSやMS-WINDOWSで有名になっていても、当時のマイクロソフトは,まだ余裕のない小さな会社だったのだと痛感させられます。

シアトル探訪の方針とプラン

食後、シアトル探訪の方針とプランを立てました。まず絶対に無理をしないことで、途中2人のどちらかが具合が悪くなるようなことがあったら、直ちに探訪を中止して引き上げるということです。病気になったら、大学にも学生達に家族にも迷惑をかけることになります。絶対に安全サイドで行くことにしました。

これはスイスのアルプスにロープウェイで登った時の経験によります。気楽に考えて無警戒にロープウェイに乗りました。すると、きわめて短時間で数千メートル以上の高さに持って行かれました。たちまち高山病になり、気分が悪くなりました。この時、無理をせず直ちに麓に下りたことで気分が回復しました。宿にもどって上の方で開けたプラスチック製の水のペットボトル瓶を見ると、気圧の差で、ぐにゃりとよじれて曲がっています。気味が悪いと思いました。私の血管もこうなったのだと深く反省しました。それ以来、旅行では絶対に無理をしないことにしています。

その方針によれば、最初に私の目的にとって重要な部分を探訪し、それから何でもなければ、だんだん探訪の範囲を広げて行くということになりました。こうすると、動きが重複したり、無駄が出ますが、いつ中止できるという利点があります。

次に探訪計画とルートです。最後まで校正に忙しくランド・マクナリーの地図に赤丸を貼り込めたのが出発前々日ですから、はっきりした計画はありませんでした。しかし、地図を見ている内に、ワシントン湖東岸、シアトル北部(ワシントン湖北岸)、シアトル南部(ワシントン湖南岸)に分け、1日には1つの地域だけを見ることにしました。最初の日は、ワシントン湖東岸地域です。

MS-DOSの生まれたワシントン州最初の本社

まず社員16人のマイクロソフトが1979年12月アルバカーキから戻って最初に入った本社を見に行く事にしました。この本社はシアトルとかベルビューのダウンタウンにあるオールド・ナショナル・バンクというビルと書いてある本が多いのです。それは間違っていないのですが、現在はビルの名称はUSバンク・プラザに変わっています。正確な住所はワシントン州ベルビュー市8番ストリート10800番地スイート819(10800 NE 8th Street, Suite 819, Bellevue, WA)です。これを見つける顛末は『ビル・ゲイツ Ⅰ』の104頁に書いてあります。

レッドライオンからの道順はきわめて簡単で、112番アベニューNEを北上し、NE8番ストリートを左折して少し行った所です。自動車で6分です。このビルの8階でMS-DOSの開発が行なわれたのだと感慨深いものがものがありました。ふつうの人には、つまらないビルでしょう。USバンク・プラザの写真を撮り終えると、次の目標を入力しました。すると警官に「こんな所に車を止めて何をしている?」と聞かれて、「次の目的地を入力しています」と答えました。「それではビルの横の道に車を入れなさい」と言われて、その通りにしました。

マイクロソフトの2番目の本社

1981年11月、マイクロソフトは、1マイルほど北のベルビューのノーサップ・ウェイ10700番地(10700 Northup Way Belleview, WA)に新しく出来た2階建てのビルに引越しました。本社の隣にあるバーガーマスターのチーズバーガーとマックシェイクがビル・ゲイツの昼食の定番になります。ここは最初の本社から2マイル、自動車で7分程度の所にあります。また112番アベニューNEに戻って北上するだけです。低層階の建物です。

今日は朝食を食べたばかりでバーガーマスターのチーズバーガーを食べたくないけれど、明日の朝食はここにしようと決めました。この建物は次第に手狭になり、ノーサップウェイの東方向に拡大して行くことになります。サンセット・コーポレート・キャンパスなどの話も合わせて、この辺の話は『ビル・ゲイツ Ⅰ』214頁に書いてあります。

マイクロソフトの現在の本社

1986年2月16日マイクロソフトの社員数は1200人に達しており、ノーサップ・ビルディング周辺では収容しきれなくなったので、さらに5マイル東に離れた現在のレドモンドのキャンパスに移動します。ビル・ゲイツとスティーブ・バルマーが一緒に学生時代を過ごしたハーバード大学の寄宿舎カリア・ハウスのイメージに似せて作ったといいます。大学のイメージを模倣したのでキャンパスと呼んでいます。

SECに提出される有価証券報告書に記載される正式な住所はワシントン州レドモンド市マイクロソフト・ウェイ1番地(1 Microsoft Way, Redmond, WA)です。 2番目の本社の東5マイルで自動車で10分です。着いて驚いたのは、ビルの数の増えた事です。昔はキャンパスの中にポツンポツンとビルがありましたが、敷地一杯にビルができています。

ぐるぐる中を走り回ってもらって段々記憶が戻ってきました。図面で予備研究はしてきましたが、ともかく建物の洪水にはびっくりしました。昔の広々とした感じではなく、息づまるような気さえします。今は全世界の社員が12万人で、米国内の社員も6万人ですから、レドモンドの本社もビルを増やさざるを得ないのでしょう。

テントが沢山設置してあって片付けていました。ウィンドウズ10の発表会用だったと思います。前の週に発表会があったようです。1995年のウィンドウズ95の発表の時もテント村ができていたなとなつかしく思い出しました。あれから、もう20年も経過しているのです。レドモンドのキャンパスについては『ビル・ゲイツ Ⅰ』431頁に書いてあります。

アマゾンの最初のガレージ付き本社

ここから、次のアマゾンの最初の本社に向いました。東海岸から西海岸に移って借りた最初の本社です。ふつうの家です。ワシントン州ベルビューNE28番ストリート10704番地(10704 NE 28th St., Bellevue, WA)にあります。私は『アマゾン・コムの野望』という本を書いているので、どうしても自分の目で見てみたかったのです。ただマイクロソフトのキャンパスから戻ると、無駄な動きをしています。でも最初の方針ですから、仕方がありません。実際に見ると平凡な家だなと思います。ジェフ・ベゾスはガレージから会社を起したという伝説を作りたいという希望があったので、実際にはガレージは閉じられていましたが、元ガレージ付きの家を借りたのです。

マイクロソフト現会長サトヤ・ナデラの家

次にベルビューをもっと西に向かい、マイクロソフト現会長サトヤ・ナデラの家を目指します。ワシントン州クライド・ヒル89番プレイス1728番地(1728 89th Pl NE Clyde Hill, WA)付近です。少し番地はずれるかもしれません。アマゾンの最初の本社の家から2マイル6分です。メディナにあるビル・ゲイツやチャールズ・シモニーの家を目指していますが、途中にアマゾンの本社があり、サトヤ・ナデラの家があるので通過するのはもったいないのです。

到着すると見晴らしの良い、風の涼しい場所でした。こういう所にマイクロソフトの最高経営責任者のサトヤ・ナデラが住んでいるのだなあと思いました。

チャールズ・シモニーとビル・ゲイツのメディナの邸宅

チャールズ・シモニーの家は、ワシントン州メディナ84番アベニューNE84番アベニュー111番地(111 84th Ave NE, Medina, WA)にあります。 サトヤ・ナデラ会長の家から1.2マイル、自動車で5分です。近寄らないでも白い目立つ家で、よく見えます。

ここからワシントン州メディナ73番アベニュー1835番地(1835 73rd Avenue NE, Medina, WA)にある。ビル・ゲイツの家に向います。1.6マイル5分です。ビル・ゲイツの家は、比較的込み入った場所にあるので、エバーグリーン・ロードから下りて裏口までの道の73番アベニューが私道でなく公道になっています。たしかにメディナのワシントン湖東岸の最も良い場所にあるのですが、こんな難しい所でなければエバーグリーン・ロードから私道にできたにと思います。

73番アベニューは公道ですから、行ける所まで行ってみました。突き当たりに木でできた家があって、門があります。ビル・ゲイツの家の裏口です。写真としては面白いものではないのですが、ともかく撮っておきました。やはりワシントン湖からでないと無理だと思いました。ワシントン湖の周遊観光船に乗ろうと決心しました。

ハンツポイント

次は北東に進んでスティーブ・バルマーの家を見に行きました。ビル・ゲイツの家から2.2マイル、自動車で9分です。ワシントン州ハンツポイント市ハンツ・ポイント・ロード3832番地(3832 Hunts Point Rd, Hunts Point, WA)でした。このハンツポイントという場所も高級住宅地です。スティーブ・バルマーの家はハンツポイント・ロードの真ん中あたりの右側です。入口だけは写せましたが、何も見えません。航空写真で研究しているので、それでもいいと思いました。

またあまり御存知ないかもしれませんが、マイクロソフトのニール・コンゼンの家もワシントン州ハンツポイント市ハンツ・ポイント・ロード3252番地(3252 Hunts Points Road, Hunts Point, WA)にあります。スティーブ・バルマーの家より少し南です。

ハンツポイントの一番先端に近い所には有名な日系3世のスコット・オキの家があります。ワシントン州ハンツポイント市ハンツポイント・ロード4315番地(4315 Hunts Point Road, Hunts Point, WA)です。外からは何も見えないので、ワシントン湖の周遊観光船から見てみようと思いました。

狭い半島のようにワシントン湖に突き出した地域にマイクロソフト関係の大物達が住んでいると驚かされました。

ワシントン大学の学生街

ずいぶん収穫があったので、遅い昼御飯を食べるために、ワシントン大学の学生街へ行ってみることにしました。米国陸軍工兵隊が建設したワシントン湖の浮橋を渡って、ワシントン大学の裏手の学生街に行ってみようと思ったのです。530 番の乗ってワシントン湖を越えました。ユニバーシティ・ディストリクトという地域を目指しました。食事については全く研究不足で、学生街に行けば、なにかファーストフードくらいあるだろうと油断していました。4326 University Way NE University District, Seattle, WAという場所にあったユニバーシティ・ブックストア付近で探すことにしました。

ここにはたくさんお店がありましたが、全く初めてだと、自動車を停める所を探すのが難しく苦戦しました。何とか停められてもお店の中で食べる形態が多く自動車を道に停めて二人で食事に行くと、自動車が心配です。期待したファースト・フードは事前研究なしでは、そう簡単に見つかりません。本屋で地図を買った時、建物の裏側に駐車場があって、買物をすれば、駐車料金は無料になるらしいと分かりましたが、後の祭りです。何とかお店でサンドイッチとチーズを探して買いました。

キャリロン・ポイントへ

再び浮橋を渡って、東岸に戻ると、家内が「地図にもう一つ赤丸があるけれど、行かなくていいの?」と聞いてくれました。キャリロン・ポイントのカスケード投資会社です。私の『ビル・ゲイツ Ⅰ』439頁に出ていますが、午前中、収穫が多かったので、あまり欲張らないことだと思って見切ったのです。

ビル・ゲイツの資産の多くは、1994年頃から、カスケード投資会社に運用委託されています。360億ドルつまり4兆円を越す資産が運用されているのです。カスケード投資会社は合同会社です。合同会社は、事業内容を株式会社の場合ほど細かく公開する必要がありません。カスケード投資会社は、マイケル・ラーソンによって運営されています。

カスケード投資会社は、ワシントン州カークランド市キャリロン・ポイント2365番地(2365 Carillon Point Kirakland, WA)に本社があります。ビル・ゲイツの家の北東方向4.2マイルの距離にあり、車で10分ほどの所です。100人ほどの社員がいると言われています。

カスケード投資会社の社風は、倹約の精神に富み、フェイスブック、ツイッターの使用を禁じ、メールの使用も制限して機密保持に格別に配慮しているという話です。また社員は、ビル・ゲイツやカスケード投資会社のために働いていると漏らしてはならず、別の会社のために働いていると言うように指導されていると言われています。

またメディナを通過してキャリロン・ポイントに着きました。ここは埠頭になっているのです。昔はここで艦船を建造していたといわれています。ワシントン湖は非常に深く、古い艦船が沈められていると20年くらい前にマイクロソフトのケイさんに聞いたことがあります。今は艦船の建造施設は全て撤去され、新しい町になっています。

目的の建物はすぐみつかりましたが、本当の看板など出ているわけがありません。別の会社名の投資会社の看板が出ていました。こちらも気を使って、全周方向の撮影にしました。ビル・ゲイツはキャリロン・ポイントが余程好きらしく、近年のインタビューも、どこかは特定できませんが、キャリロン・ポイントの建物でやっています。

時差ぼけがつらくなってきたので、ベルビューに戻ることにしました。ベルビューの街を一周すると、これは便利だと思いました。ベルビュー・プレイス、ベルビュー・スクエアのようなモールもありますし、メイシーズやノードストロームもあります。今の所どこへ入ったのか思い出せないのですが、ワインを2本買いました、1本はベリンジャーのロゼで2倍のサイズでした。ワインの栓抜きも買いました。

その後、ここでもユニバーシティ・ブックストアを見つけました。出版局長という仕事の関係もありますが、元来、本が好きなので、ユニバーシティ・ブックストアに入りました。ワシントン大学のユニバーシティ・ブックストアでした。

その隣にZeeksというピザ屋さんがあったので、冷たいサンドウィッチよりはましと思って、注文しました。「レイニアー・ビールないですか?」と聞くと、ごそごそ探していましたが見つからなかったようです。

レッドライオンに戻って、ベリンジャーのロゼを飲みながら、ピザを食べると、だんだん眠くなり、寝てしまいました。時差ぼけには、以後約1週間悩まされることになります。

ヨアヒム・ケンピンの本

早く寝てしまったので、夜中の2時半に目がさめてしまいました。仕方なくヨアヒム・ケンピン(Joachim Kempin)の本を詠むことにしました。かつてマイクロソフトに在籍した幹部で、スティーブ・バルマーを公然と批判し、著書で辞職を勧告した人がいると記事を見つけました。出発10日ほど前に米国のアマゾンに発注したのですが、時間的に出発に間に合わないかも知れないと航空便にしました。それが一向に発送されないのです。発送まで何日もかかるのでイライラしました。

米国から発送されると、たしかに2日で届きました。結局届くのに1週間程度かかりました。特別料金を払う意味がありません。出版局の専門家に見てもらうと、この遅れはオン・デマンド本だったせいのようです。つまり注文を受けてから、おもむろに製作に入るのです。注文を受けてから印刷し製本するのですから、完成までには4,5日かかるのは無理もありません。この経験でオン・デマンド本の分野への進出は慎重にしたいと思いました。注文を受けてすぐに発送できなければ戦機を逸します。

ヨアヒム・ケンピンの本の題名は”Resolve and Fortitude”という、まことに訳しにくいものです。直訳的には『決意と不屈の精神』とでもなるのでしょうか。実はこの題名に彼の思いがこもっています。副題に「マイクロソフトの陰の実力者が沈黙を破る」とあります。

ヨアヒム・ケンピンには、25年から30年近く昔だと思いますが、当時マイクロソフトの第2営業部長(OEM担当)だったN氏に紹介してもらいました。ヨアヒム・ケンピンはマイクロソフトのOEM事業の超大物と説明されたように覚えています。何度か会っている内に、アルコールが少し入っていたせいか、「率直に言って、あの人は右寄りの人ですか?」と失礼な事を聞いてしまいました。「いや、彼のお父さんは国家社会主義者に虐められた方で、全然反対側です」とN氏が説明してくれたのが記憶に残っています。

シアトルのマイクロソフトの本社にNECのT専務とビル・ゲイツを訪ねて行った折に、F会長のセットアップで、ヨアヒム・ケンピンと初めて昼間に会い、初めてまともな話題で話し合いました。結構、戦闘的でアグレッシブな人だなと思いました。忘れかけていた人ですが、一体、あの人は本当はどんな人だったのだろうと、本を読むことにしました。

ヨアヒム・ケンピンは1942年ドイツのハノーバーに生まれています。高校を卒業すると、ドイツ陸軍に志願して2年行っています。その後、数学の分野で大学院修士課程終了程度の資格を取ったと主張しています。この人に特徴的なのは細部を決して明かさないことで、ドイツ陸軍のどの部隊に配属にされて、どこで勤務していたのか分かりません。どこの大学や大学院に行ったのかも分かりません。しばらく読むと大学の正式な学位は取っていないらしいことが分かります。

ともかくヨアヒム・ケンピンは、高校の非常勤講師やプログラマーを経験した後、1972年ミュンヘンのDECに入社します。プログラミングの講師やセールス訓練者を経験した後、米国のマサチューセッツ州のDECでトレーニング部に移りました。1981年にナショナル・セミコンダクター出身のマイク・スピンドラーに誘われて、アップルの子会社クラリスに入社します。スティーブ・ジョブズとも会っているようですが、どうも性格のそりが合わなかったようです。

1983年、ヨアヒム・ケンピンは日系3世のスコット・オキに見出されて、ドイツのマイクロソフトの責任者になります。この辺のヨアヒム・ケンピンの話は、私の『ビル・ゲイツ Ⅰ』の360頁、361頁に書いてあります。

ヨアヒム・ケンピンの本に登場する日本人は、マイクロソフト株式会社の初代社長の古川享氏、NECの戸坂馨氏、マイクロソフトの極東担当で登記上はマイクロソフト株式会社の初代社長であったロン・細木氏などです。
42頁には、おやっと思うようなことが書いてあります。私にも事実かどうか確かめられる範囲にありますが、まだ確かめていないので、引用は差し控えます。いずれ関係者に聞いてみたいと思っています。

ヨアヒム・ケンピンは、プロシア流の軍事思想に凝り固まっています。3頁から5頁にかけて、シャルンホルスト、グナイゼウ、モルトケ、クラゼビッツなどの軍略家の名前が挙げられています。特にクラウゼビッツの『戦争論』に影響を受けてAuftragstaktikという戦術を提唱しています。この言葉は、本の中に何度も出てきます。索引を見ると、10数回出てくることになっています。実際には、もっと出てきたように思います。

Auftragstaktikは、ヨアヒム・ケンピンによれば、Autonomous Tactic(自律戦術)ということで、米海兵隊のように最前線の部隊が自律的に臨機応変に戦うということのようです。クラウゼビッツに書いてあったというのです。

私はクラウゼビッツの『戦争論』の岩波文庫版を2度ほど通読していますが、クラウゼビッツの思想はそんなに柔軟なものでなく、もっと堅いものだったように記憶しています。今更もう一度クラウゼビッツの『戦争論』を読む気にはなれないので、帰国したらドイツ語版の索引から調べてみようと思いました。帰国してみると、そんな事を調べる意味があるかなと思って、やっていません。

ともかくヨアヒム・ケンピンはマーケッティングは戦争だと思っており、マーケッティングにはプロシア流の軍事哲学が有効と思っていることが分かりました。

マイクロソフトのかつてのマーケッティング戦略に、「フロントライン・パートナーシップ(Frontline Partnership)」がありました。奇妙な言葉と思っていましたが、ヨアヒム・ケンピンの思想を汲んで訳すと「最前線での提携」になるでしょう。

通読には2週間もかかってしまいましたが、私に分かったことは、マイクロソフトのOEM営業は意外にも、ヨアヒム・ケンピンの独立王国で、彼が自分の好きなようにやっていたということです。ビル・ゲイツもスティーブ・バルマーも目が届かなかったのでしょう。次第にこのことに気が付いたスティーブ・バルマーによって締め付けが厳しくなり、ヨアヒム・ケンピンはマイクロソフトにいられなくなったのだと思います。

字が細かい上に、ドイツ語の文法で書かれた英語には悩まされました。企業の代名詞は「彼女」になるのです。また自分だけにしか通じない略語を多用するのには閉口しました。

「この人は・・・」と思ったのは329頁にアップルⅡのCPUがモトローラ製と書いてあることです。欧州のアップルの指導的な立場にいながら、こういう間違った認識でいたのではとがっかりでした。

本を読んでいる内に朝が来ると、困ったことに眠くなるのです。

(続きます)