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出版局長だより (第13回)

出版局長だより 第13回

出版局長の脇英世です。今月は夏の旅行について書きたいと思います。
昨年の暮れのことですが、バイロイトの祝祭劇場でワーグナーのオペラを観劇できるツアーがあると聞かされました。バイロイトの祝祭劇場のチケットは入手が難しく、小泉元首相でも10年待ったとかの噂で、5年10年待ちは当たり前と聞かされていたので、半信半疑でしたが、ともかく申し込みました。

バイロイトの祝祭劇場のオペラは、当然の事、ドイツ語で上演されますが、丸山眞男氏、小林秀雄氏のような日本最高の知的エリートでも、ドイツ語が聞き取れずに閉口したという話を聴いていたので、よほどしっかり脚本を読み込んだり、ブルーレイやDVDを何度も見て、きちんと事前研究をして行かなければいけないとは思っていました。

ところが、いろいろなことが次々に起きて、とてもワーグナーの研究どころではありません。それに10月にはスティーブ・ジョブズの本を出版しなければならないので、原稿の仕上げに必死でした。「とても間に合わない、11月にずれ込みそうだ」という悲鳴も聞かれましたが、出版局のこの困難な時期だからこそ、何があろうと10月に出そうと思いました。それがかなりのプレッシャーになりました。結局、準備ゼロに近い状態で出発することになりました。

ベルリンへ

8月上旬に日本を出発し、フィンランドのヘルシンキ経由でドイツのベルリンに着きました。最初の日は疲れていたので、外出しませんでした。翌朝、ブランデンブルグ門を皮切りにベルリン観光に行きました。10数年前にベルリンを訪れた時より、ベルリンは、ずっときれいになっていて、ブランデンブルグ門も補修されていたように感じました。

ブランデンブルグ門

ブランデンブルグ門

せっかくベルリンに来たのだから、先回訪れたチェックポイント・チャーリーに行きたいなと思いました。宿のホテル、マリティム・プロアルテに、チェックポイントというバーがあって、思い出したのです。チェックポイントは検問所で、A、B、C、Dとありました。チェックポイントCという代わりに、覚えやすいようにチェックポイント・チャーリーと呼んだのです。

1961年、東西対決の厳しい時代、ちょっとした事件がきっかけで、ドーザー・プレートをつけた米軍のM48戦車部隊とソ連軍のT55戦車部隊が、チェックポイント・チャーリーの直近、わずか数十メートルの距離で真正面から、にらみ合いました。この距離だと口径が小さく威力のないM48の90ミリ砲でも、ソ連軍のT55戦車の正面装甲を打ち抜けたでしょう。有名な写真があります。もし何かの行き違いで、どちらかが発砲したら、おそらく第3次世界大戦に突入したと思います。以前に訪ねた時は、街にその頃の面影が残っていました。

ツアーのコースにはなかったのですが、私とガイドさんが話していたのを聞いて、バスの運転手さんが進路を変更して、チェックポイント・チャーリーに連れて行ってくれました。通過しただけですが、なつかしく思い出しました。もう昔のような物騒な雰囲気はありません。チェックポイント・チャーリー博物館は残っていましたが、周囲はとてもにぎやかで平和な雰囲気の街になっていて、冷戦時代の残照という感じで隔世の感がありました。

また東西ベルリンを隔てていたベルリンの壁はほとんどなくなっています。1.3キロメートルほどの壁に118人の芸術家が描いたイーストサイド・ギャラリーが残っています。昔ほど壁に対する感激はなく、むしろ落書きに近いと思いました。ここでも時代は変わったと思いました。

その後、博物館島という場所に行って、前にも訪れたペルガモン博物館を見る予定でしたが、2時間待ちという、ものすごい行列で、とても入れませんでした。この博物館の壁には70年近く経っても、まだ第二次世界大戦のベルリン攻防戦の銃撃戦の跡が痛々しく残っています。

代わりにネフェルティの像が見れる新博物館に行きました。ここの展示物は要するにネフェルティの像しか人を呼び寄せる展示がないのですが、それでも結構楽しめました。日本に帰ったら、昨年、大英博物館で買ってきたネフェルティの像に、見てきた通りの色を塗りたいと言うと、家内に反対されました。

その後ジャンダルメン広場で、ドイツ教会、フランス教会を見て、ワーグナーが「さまよえるオランダ人」を指揮したというコンツェルトハウス・ベルリンを見ました。

昼食はソニーのビルの広場でとりました。前に来た時は、この周りは何もなくてソニーのビルだけが建築中で、後は掘り返されて整地中のむき出しの地面ばかりでしたが、もう、今はむき出しの地面など全くなく、ビルだらけで、ソニーのビルが他のビルに埋れているのを見て、びっくりしました。

食後、エルフルトにバスで移動しました。長い距離の移動でした。ガソリン・スタンドのトイレのシステムが面白かったです。有料ですが、いくらか商品を買える券をもらえるのです。それでいろいろ小物を買いました。

エルフルト

私にとっては、エルフルトという街は、ほとんど知らない街で、せいぜい社会民主党のエルフルト綱領で知っていたくらいです。綱領のイメージとは違い、エルフルトは静かな街で、マルティン・ルターとバッハの一族で有名という話で驚きました。

バッハ一族が多く洗礼したカウフマン教会と、マルティン・ルターの像を見た後、クレーマー橋という商店街橋を過ぎて、1505年からマルティン・ルターが6年間学んだアウグスティーナ修道院を訪ねました。

ある時、激しい雷雨に会ったルターは、「神様、お助け下さい。お助け頂ければ、私は修道士になります」と叫んだそうです。命拾いしたルターは神様との約束で修道士になります。息子の現世的な出世に期待をかけていた父親は、さぞ、がっかりしたでしょう。アウグスティーナ修道院でルターは聖書の猛勉強をしたそうです。

アウグスティーナ修道院の礼拝堂のステンドグラスにはルター・ローズがありました。突然言われても、それ何?という感じで、最近になって思い出して、グーグルの画像検索で初めてルター・ローズを知りました。

1511年、修道会の命令で、ルターはヴィッテンブルグ大学に学びに行きます。やがて教育者となったルターは1517年、ヴィッテンブルグ城教会の扉に95か条の提題を貼りだし、宗教改革へと進んで行きます。

その後、歴史の古いエアフルト大学を外から見学しました。大学の窓に飾られたシンボルについて説明を受け、「うん、なるほど」と思いました。ドーム広場の市場を通って、大聖堂に行きました。階段はきついと言われていたので心配しましたが、無事に登れました。

午後、市庁舎に行き、ワーグナーのタンホイザー、ゲーテのファウスト、マルティン・ルターに関する絵画を見ました。この頃、杖は頼りになりましたが、もう歩き疲れて記憶が曖昧です。

ルターについては帰国してから徳善義和氏の『マルティン・ルター ことばに生きた改革者』岩波新書を読みました。入門書としては大変読みやすく優れていると思います。

ワイマールへ

翌日、赤い列車に乗って、ワイマールに行きました。ガイドさんが切符を買うのを見ていて、ドイツの鉄道の切符を自動券売機で買うのは結構難しく、大変だなと思いました。

15分でワイマールに到着しました。とても静かで美しい閑静な町です。観光の対象になる国民劇場までは少し歩きます。でも杖があれば平気です。

国民劇場の前には、ゲーテとシラーの銅像がありました。実際には左側のゲーテの方がシラーより、少し背が低かったようで、負けず嫌いのゲーテは上げ底の靴を作らせて履いていたようです。
ゲーテの全集は一応全部読みました。でも日本語の全集は選集にしか過ぎないのだそうです。

シラーはあまり読む気になれず、少ししか読んでいません。ルカーチの全集を読んだ時に、ルカーチが、しきりにシラーを薦めているのが不思議でした。社会主義リアリズムと昔の時代のシラーと、どういう関係があるのだろうと思ったものです。中には入れなかったのですが、シラーの家も近くにありましたし、1781年にシラーがここで生まれたと書いてありました。いつかシラーも読んでみたいと思いました。

国民劇場では、音楽監督をしていたリストによって、ワーグナーの「ローエングリン」の初演も行われましたし、リヒアルト・シュトラウスも音楽監督をしていました。

反対側にバウハウス博物館があって、意外さに驚きました。でも意外でも何でもなく、バウハウス運動はワイマールが発祥地なのです。すっかり忘れていました。

ゲーテの家

次にヨハン・ウルフガング・フォン・ゲーテの家を訪ねました。文豪ゲーテといい、宰相まで勤めたとはいうものの、ゲーテの現世的な偉大さについては、あまり理解していませんでした。ゲーテの家を訪ねてその壮大さに圧倒され、なるほど、これは相当の大物だったのだと理解しました。私は即物的なのかもしれません。邸内の美術調度品なども素晴らしいものがありました。自然研究の収集物も保存されていました。

ゲーテは自分のことを自然研究者と考えていて、正しいかどうかは別として、いろいろな理論を唱えています。特に有名なのが色彩論(光学)で、かなりの自信を持っていたようで、ニュートンの光学を貶していました。

エッカーマンの『ゲーテとの対話』を読んだ時、一番悲惨に感じたのは、ゲーテの色彩論でした。ゲーテの提灯持ちのエッカーマンですら賛成していません。私もどう考えても、ゲーテの色彩論は、悠揚迫らざるニュートンの『光学』にはかなわないと思いました。

ところが帰国してから、レオン・レーダーマンの『神がつくった究極の素粒子』を読んでいる時に、ニュートンの暗部についての記述(P174前後)を読んで、ふとニュートンが絶対だと考えるのは、必ずしも正しくないかも知れないと思いました。もしかするとニュートンもゲーテと大差のない部分もあるのではと思い始めたのです。

そこで、ずっと、本棚のどこかにほっぽり出していたR・J・T・ドッブズの『錬金術師ニュートン』を思い出し、探し出して読んでみました。なるほど気がつかなかったニュートンの一面もあると思いました。

たしかにそれはそうなのですが、しかし、再びニュートンの『光学』と『プリンキピア』を取り出して手にとってページをくって見ると、やはりニュートンは偉大で、自然科学に関してはゲーテの及ぶ所ではないと思いました。

その後、歩いて到着したマルクト広場には、ホテル・エレファントがありました。トーマス・マンの『ワイマールのロッテ』の始まりの舞台です。ホテル・エレファントの隣が黒熊亭という歴史の古いバーでした。せっかく読書の契機を手に入れたので、帰国後、早速アマゾンから取り寄せました。いつか読みたいと思っています。旅行の良い点は、私のように保守的な人間に何か新しいことをやってみようと思わせる所です。

その後、イルム公園に入り、左方にゲーテの山荘を見て、フランツ・リストの夏の家に行きました。リスト・ハウスというのだそうです。比較的、簡素な家でした。ピアノ(オルガン?)も比較的小型のものでした。

食後、アンナ・アマーリア大公妃図書館に行きました。その後はマルクト広場で銀杏のお茶というのを買いました。私は味わいませんでしたが、帰国後、賞味した家内によれば、必ずしも美味しいというものではないようです。

自由行動時間にバウハウス博物館にも行きました。時間の都合もあり、撮れる限り写真を撮ってきました。本棚に眠っている『バウハウス 1919-1933』をいつか読みたいものだと思いました。

夕方無事にワイマールからエルフルトに戻りました。かなり長い1日でした。
旅行についてはもう1回書くことにします。とても収穫の多い旅でした。