科学技術と教育を出版からサポートする

出版局長だより (第3回)

出版局長からのメッセージ 第3回

多少脈絡もなく、散漫ではあるのですが、最近、考えていることを思いつくまま描きます。「あちらこちらに飛んでいるじゃないの」と家内には批判されています。十分、承知はしています。その点、お許し下さい。

さて、1960年代から1970年代のコンピュータの状況を書くために、どうしても当時の時代風潮を思い出さなければならなくなりました。そのために次の2つの小説を読みました。
・『カッコーの巣の上で』(”One Flew Over the Cuckoo’s Nest”)ケン・キージー、1961年
・『クール・クールLSD交感テスト』(”The Electric Kool-Aid Acid Test”)トム・ウルフ、1968年

『カッコーの巣の上で』は、ケン・キージー(Ken Kesey。正式な名前は Kenneth Elton Kesey)が書きました。ケン・キージーは、オクラホマからの移住労働者の息子として1935年9月17日、コロラド州ラ・ハンタに生まれました。両親はスタインベックの『怒りの葡萄』に登場するような典型的なオーキー(Okie)だったのでしょう。


大恐慌の後、天候不順と大資本によるエンクロージャで農地を追い立てられ、西海岸の楽園を目指してオクラホマ州から家族と家財一切をおんぼろトラックに詰め込んで移動してきた零細農民をオーキーと言います。やっとたどりついた西海岸の楽園で待ち受けていたのは激しい偏見と差別と苛烈な暴力でした。スタインベックは詳細に零細農民の苦渋と生き様を描き出しています。

1946年、キージー家は、オレゴン州スプリングフィールドへ移住します。ケン・キージーは、高校、大学を通して174ポンドの巨体を誇るレスリングの選手でしたが、肩を壊してレスリングをやめます。また演劇クラブに属していました。ケン・キージーは、1957年、オレゴン大学のジャーナリズム学科を卒業します。もともと文才はあったのでしょうが、ここで彼の文章の腕は磨かれます。

さらにケン・キージーは、1958年スタンフォード大学に入学します。当時スタンフォードのゴルフコースに隣接した田舎風のコテージの集落であるペリーレイン(実際の土地表記はペリー・アベニューです)というコミュニティがありました。家賃も安く、ボヘミアンが集まって住んでいたのです。ペリー・レーンはカウンター・カルチャーという反体制文化の中心地になります。ケン・キージーは1958年このペリーレインに住むことになります。

サン・フランシスコから280号線を南下して、超高級住宅地のウッドサイドを過ぎて左折し、サンドヒル・ロードに入ります。すぐ左手にシャロン・ハイツという丘があります。ここにシリコン・バレーのベンチャー・キャピタルの建物が密集しています。ここがシリコン・バレーを動かす影の力のベンチャー・キャピタルの総本山なのです。航空写真で見ると要塞のようです。隣にゴルフ場があります。

サンドヒル・ロードをほんの少し走ると、左手にメイフィールド・ファンドやKPCBなどのベンチャー・キャピタルの建物があります。少し行くと右手にスタンフォード・ヒルズ・パークがあり、広大なスタンフォード・ゴルフ・コースがあります。もうここはスタンフォード大学の裏手です。

スタンフォード・ゴルフ・コース沿いのサンドヒル・ロードと、サンタ・クルズ・アベニュー、バイン・ストーリートに囲まれた三角地帯の中に目的地があります。この三角地帯の中をスタンフォード・アベニュー、リーランド・アベニューが平行して走っています。リーランド・ストーリートを少し行って右折するとペリー・アベニューです。

1900年頃、スタンフォードフォード大学は、この地域を細分して寄宿舎的なコッテージを数百作ったようです。それを記した昔の図面があります。1961年ペリー・レーンは土地開発業者によって再開発されて瀟洒な住宅地となり、カウンター・カルチャーのコミュニティは消滅することになります。

ケン・キージーは、ペリー・レーンで知り合ったビック・ローベルという心理学専攻の大学院生の勧めで、1959年メンロパークの退役軍人管理病院で行なわれていたCIAの資金援助によるMKULTRA計画の人体実験に参加しました。MKULTRA計画は、LSD、サイロシビン、メスカリン、コカイン、AMT、DMTなどの幻覚剤の人体に対する影響を調べるものでした。

ケン・キージーは、CIAのMKULTRA計画やこれに引き続く個人的な実験の中でも、これらのドラッグに関する自分の経験の詳細な記述を残しています。この経験が小説『カッコーの巣の上で』に活かされています。

『カッコーの巣の上で』は、1963年演劇化され大成功を収めます。また1975年には映画化されます。何故、この小説が当時の人達に受けたのかを理解するのは今の人達にはやさしくはないでしょう。

ジャック・ニコルソンが主演し、アカデミー賞5部門を受賞した映画『カッコーの巣の上で』は、若い方には、きわめて難解に映ると思います。私にしても昔TVで見た時には、コマーシャルで寸断されたせいもあって、何を訴えたい映画なのか、さっぱり分かりませんでした。、近年、原作の翻訳とDVDを取り寄せて検討し、やっと分かったような気がします。

さて『カッコーの巣の上で』の成功によって、ケン・キージーは1963年スタンフォード大学の南方の山中のラ・ホンダに移り住むことができました。

彼は、ラ・ホンダで友人たちと「アシッド・テスト」というLSDパーティに耽りました。後に有名になるグレイトフル・デッドというバンドに演奏させ、ブラック・ライト、蛍光塗料、閃光照明などに彩られた極彩色のサイケデリック・パーティでした。1960年代後半から盛んになったディスコティック・クラブは元々このあたりに原点があるのだと思います。

これらのパーティの様子は、トム・ウルフの1968年の小説『クール・クールLSD交感テスト』(”The Electric Kool-Aid Acid Test”)に描かれていて有名です。こんなことが本当に行われていたとは、今の人にはとても信じられないと思います。しかし、当時の記憶をたどって判断すると、実際はもっと凄かったはずだと思います。

1964年夏、ケン・キージーはヒッピーのメニー・プランクターズを引連れ、サイケデリックな塗装を施したFURTHUR号というバスに乗り込み、全米にアッシド・テストと呼ばれるLSDを広めるツアーをはじめました。

1966年1月、ケン・キージーはサンフランシスコでLSDフェスティバルのトリップス・フェスティバルを開催し、LSDの普及に努めました。その甲斐あってか、全米にLSDは蔓延してしまいます。ベトナム戦争下で、まさに狂気の時代でありました。

この2つの小説と並び称されるのがジョーゼフ・ケラーの『キャッチ=22』です。この小説は1961年に出版され、1970年には、映画化されました。当時ベトナム戦争が盛んな頃で、直接、ベトナム戦争を批判しにくかったせいもあったのでしょうか、過去の戦争に題材を採った映画が多かったと記憶しています。朝鮮戦争を題材にした『MASH』など諧謔精神に富んだ映画もありました。

『キャッチ22』のポスターを見て、また戦争映画かと食傷し、敬遠しました。研究室の一風変わった後輩が「あの映画、面白かったですよ。是非見るべきです」と教えてくれましたが、結局、私は『キャッチ22』の小説にも映画にも近づく事はありませんでした。

しかし、『キャッチ22』が60年代、70年代の米国を代表する作品であるという評価には、ついに降参し、小説とDVDを買い求めました。時間の節約のためにDVDを再生しながら、小説を読みました。これも何という狂気の世界を描いた小説かと驚きました。ベトナム戦争の激化に伴い、広く読まれたというのが分かります。ただし、少しおとぎ話のような超現実的で荒唐無稽な部分もあります。

映画『キャッチ22』のDVDを見て、あっと驚いたのは米軍の双発爆撃機B-25が17機で編隊を組んだまま、地上滑走し、離陸していくシーンです。よくもこれだけ中古の爆撃機を集めて飛べるように整備したと感心しました。冒頭の原作とは全く無関係な10分間ほどの離陸シーンですが、あまりの迫力に圧倒されました。このシーンの撮影は6週間の予定が、6ヶ月かかり、経費も1700万ドルかかったそうです。すごいシーンで、極言すると、この10分間だけで結構で、後の悪夢のような人間劇はどうでも良かったのでは、とさえ思います。むろん身勝手な感想です。フランシス・コッポラの『地獄の黙示録』でも同じような感想を持ちました。

最近、ブライアン・バーグナルという人の『コモドール:ア・カンパニー・オン・ザ・エッジ』という今は亡きパソコン・メーカー、コモドールの歴史の本を読みました。この本の445ページで「互換性は当時コンピュータ業界のキャッチ22でした(”Compatibility was the catch 22 of the computer industry back then”)という文章に出会いました。ああ、こういう本を書く著者でも『キャッチ22』を読んでいるんだと感心しました。

この本は、もともと2005年に『オン・ザ・エッジ:コモドールの華麗なる興隆と没落(”On the Edge: the Spectacular Rise and Fall of Commodore”)』として出版されました。その後、何とも不思議なことに同じ題材を扱った2冊本の計画が発表されました。やり直しというわけです。そのため数年前、2005年の本を読んだ時は、3分の1程度読んだ所で、読破を断念しました。

2010年に前半部分が『コモドール:ア・カンパニー・オン・ザ・エッジ』として出版されました。2012年秋に後半部分が『コモドール:ザ・アミーガ・イヤーズ』として出版されることになっています。翻訳は出ていないと思います。

あらためて同じ内容を扱った2005年の本と2010年の2冊を読み比べてみますと、事実の記載が大幅に変更されていて、「えっ、あれ間違いだったのか」と、ちょっと、どっきりします。良くなった部分もありますが、写真の挿入位置など、たとえばP6のNCR304など明らかに適切でないと思う所もあります。それでもコモドールの歴史は面白く、2010年の本は561ページという大冊にもかかわらず読破できました。

本というものは装丁も重要だと思うのは、アップルのマッキントッシュ開発の経緯を書いた『レボリューション・イン・ザ・バレー』という本が、どうしてもカバーの赤い色が嫌いで読めなかった経験があるからです。著者のアンディ・ハーツフェルド自身も当初はなじめなかったそうですが、もっともだと思います。食わず嫌いがいけないのだと反省して、読んでみますと、どうして、こんなに素晴らしい本を読まずにおいたのだろうと後悔すること、おびただしいものがあります。

同じことがディビッド・A・キャプランの『ザ・シリコン・ボーイズ』にもあります。翻訳はありません。軽い題の上に、カバーが漫画だったので、長い間、読まないままになっていました。実際に呼んでみると、非常に内容の深い本だったので、著者が気の毒になりました。表題と装丁で著者は損をしたなと思います。

全く同じことが『ビデオゲームの究極の歴史(”The Ultimate History of Video Games”)』についても言えます。表題は良いですし、内容も良いのですが、装丁はがっかりです。毎日電車の行き帰りに読んでいて、表紙を人に見られると恥ずかしいと思っていました。自分で黒いカバーを作りました。

美土代町の交差点の15号館に移転した出版局の間歇的な改装もいよいよ4ヶ月目で完成に近づき、これからは本作りに邁進しなければなりませんが、色々考えていかねばならないことが沢山あると思っています。