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前回,取り上げた電子文書法が対象としているのは,文字通り「文書」である。現在、紙の「文書」と「出版物」は、同じ文字を主とした印刷物でありながら概念としては明確に区別されている。しかし、デジタルコンテンツに変換すれば両者に違いを見いだすのは困難だ。もし違いを見つけるとすれば,元がマニュアルや書類のような文書だったか,編集された出版物だったか,読み手の記憶によって認識されているだけである。
 以前も書いたが、僕はeブックを「文字・画像情報をデジタルデータに編集加工して、CD-ROMなどの電子メディアやネットワークにより配布する出版活動」と定義している。eブックの標準化を議論していて、この定義に対して「出版活動といわなければ、電子文書と区別がつかない」と指摘されたことがある。
 確かに電子出版を文字情報の電子化による流通ビジネスととらえれば、電子文書(デジタルドキュメント)と区別かつかなくなる。当然といえば、当然である。書籍、雑誌という“本”と、ビジネスにおける文書、パンフレット、チラシなどの“印刷物”の違いは多分に経験的で主観的である。
 国際規格ISO 9707:1991では、各国の出版統計の標準化を図る目的で、本を「表紙をのぞき、49ページ以上の不定期刊行物」と定義している。48ページまではリーフレット(小冊子)である。ページ数で分けるのは便宜的で明確であるものの、印刷物であることに変わりはない。たとえば数百ページあるエンジニアリング・マニュアルは本とは認めがたいが、両者の違いはあいまいである。
 本と印刷物の違いは、物理的にはわずかでありながら、文化的・社会的には大きな差を持っている。ところが文字や画像などのコンテンツを取り出してページ概念のないデジタルの世界に移すと、その区別はできない。紙という物理的な存在が持っていた概念から切り離され、均質なデジタルコンテンツになってしまう。

デジタル時代の信頼性

多くの人は、いまだ文字と紙の親和性の中にいる。たとえば大事なeメールは紙出力して読んで、ファイリングしている人がいる。彼らには,ディスプレイに表示された文字より、紙に打ち出された文字のほうが信頼性が高いのだ。
 それはディスプレイの解像度といった技術的な問題だけでは解決されない。むしろ長い間に培われた読書習慣にかかわっているのである。
 たとえば、同じ紙の上の文字でも、ワープロ文字より手書き文字のほうが信頼性が高いと感じないだろうか。
 今、どのようなシチュエーションで手書き文字が使われているか考えていただきたい。挨拶文ではワープロ文書より手書きが求められることがある。お礼状をワープロで書いても、名前だけは手書きする人も多くいる。さらに冠婚葬祭にあたっては、毛筆で手書きせざるを得ない状況も生じる。日本に限らず、欧米のサインが手書きであることの重要性はいうまでもないだろう。
 では、歴史的に見て手書き文字がもっとも信頼性が高かったかというと、そうではない。12世紀までのイギリスでは、会計監査は文字で書かれたものでも読み上げられ、耳で聞くことによって行われていた。監査を英語でaudit〈オーディット〉というのは、audience(聴取)と同じ“聞く”という意味のラテン語に語源を持っているからである。
 人類史上、声は文字に対して圧倒的に長い歴史を誇っている。驚くなかれ,文字は発明後、近世に至るまでの長き間、声の補助的立場に過ぎなかった。
 声、手書き文字、印刷活字と置き換わってきた信頼性という流れの先に、デジタルデータの文字がある。人間の習慣というのは、技術的普及の後からついていくものなのである。