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朝日新聞に神戸女学院大学内田樹教授が新古書店と公共図書館の話題を取り上げて,「読んでもらえりゃ本望だ」と題するコラムを書いている(12月12日付)。出版不況を背景として漫画家たちが「新古書店の出店規制」を訴え,作家たちが「図書館の補償金」を要求していることに,「私自身はあまり共感」できないという。
 氏自身は,「1人でも多くの読者に読んでほしい」から書くのであって,「金銭的なリターンはあるに越したことはないが,なくても別に構わない」という。「書いた本を全部裁断する代わりに1億円払うというのと,全国の図書館に無料配布するのとどちらがいいかと問われたら,私は迷わず後者を選ぶ」として,最後にこう結ぶのである。「いま一瞬でも答えをためらった人はおそらく表現者には向いていないと私は思う」。

職業作家の存在

最後の1行に違和感を覚えるのである。文脈からすると「金銭的なリターン」を要求するような作家は「表現者に向いていない」となる。しかし,作家や漫画家が訴えているのは「表現者」としてではなく,「著述業」としての生活基盤が侵されているからである。意図的に読み替えの根底に「作家=清貧」思想が読めなくもない。
 言うまでもなく著述業というのは「業」とする以上,書くことで収入を得ることであり,本業を越えて副収入が多ければ作家であっても著述業ではない。表現することだけで生活をかけることの方が,より多くの覚悟を必要とするにしても,表現の質と対価を得ることに本質的な因果関係はない。
 もちろん多くの作家が大学教授であったり企業人であることは別に恥ずかしいことでも何でもない。氏のように大学教授という職で生活基盤を確保できれば金銭的な安定の中で創作活動に励むことができる。古くは貴族のパトロンシップで芸術家が生活していた時代もある。日本でも職業作家が成立するのは近年であり,明治時代に島崎藤村が3人の娘を極貧のため栄養失調で次々と亡くしているのは有名な話である。

フリーソフトのビジネスモデル

インターネットが公共財である学術研究を出自として誕生したことで,オープンソースやフリーソフトの流通を加速し,今日まで「情報は無料」という大きな流れを形成してきた。その結果,コンテンツビジネスは未だ苦しみ,著作権意識に変化をもたらした。一方でネットの発言が過激になりがちだとしても,一部のフリーソフト信者の発言に「著作権で対価を得ることは罪悪である」といったルサンチマンすら感じる。でもね,何事も行き過ぎは良くない。
 ではフリーソフト制作者はどのようにして生活費を稼ぐのだろうか?コンピュータオタクの中にはコンビニで働いてフリーソフトを作っている人もいるかもしれない。寝食を忘れ品質の高い情報を提供し続けるウェブマスターは敬服に値するし,プロのソフトウェア技術者よりも優秀なアマチュアプログラマの存在も否定しない。でも別のビジネスモデルの中に身を置いて収入を得ることよりも,ソフトウェアの創作的行為で収入を得ることが卑下される風潮には異を唱えたい。
 創作的行為で対価を得られる社会は文化的な進歩であり,よりよい作品がより多くのお金を集めるのは資本主義の美徳である。また,近世において芸術作品を享受できたのは一部特権階級だけであったが,今はすべての人々が作品に接することができる。誰でも著作物に対価を払うことで芸術のパトロンになれるのである。
 僕が自分の小遣いで初めて小説を買ったのは12歳の時である。『老人と海』の文庫本だ。その時,印税という著作権流通システムによりヘミングウェーのパトロンになったと父に教わった。なんて誇らしくすばらしい思いがしたことだろうか。