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一般教養でありながら意外性が高いのがクイズ問題の壺である。相手が引っかかればまさに思う壺である。大学生に出版メディアについて話す機会があり,彼らの常識をちょっと刺激して注意を引こうと冒頭にクイズを出した。「印刷術を発明したのは誰か」。
 グーテンベルクと答えたら,思う壺である。いうまでもなく印刷術は,まず木版による印刷が中国で誕生し,朝鮮を経て日本に伝えられた。グーテンベルクの仕事を厳密に定義すれば,西洋における金属活字と印刷機による印刷術の発明ということになる(本誌の読者には釈迦に説法でした)。

中国出版文化史

活版印刷そのものについては,グーテンベルクに先立つこと400年程前に,すでに中国で粘土に文字を彫って焼き固めた活字による印刷が行われたといわれている。さらに朝鮮でも1200年代に金属活字(銅活字)の鋳造ならびに印刷が記録されている。
 『中国出版文化史』(名古屋大学出版会)を上梓された井上進先生の講演を聞く機会があった。「世界を変えた技術といったものは存在するか?」と問いかけながら,出版文化史を通じて見た伝統中国の先進性については,話術にも長け大変興味深かった。その主題は本を読んでいただくとして,中国悠久の歴史を感じる愉快なエピソードを紹介しよう。
 欧米の学者に案内されて,中国の学者と一緒に15世紀中頃の印刷物である,いわゆる「インキュナブラ」を博物館で見たときのこと。中国の学者は「どれも明版ではないか」と発言して,欧米の学者を憤慨させたという。明の時代の印刷物なんて新しすぎて珍しくもない,というのである。
 また,日本の学者が国際学会で「現存する最古の印刷物は日本にある百万塔陀羅尼経である」と発言した。すると韓国の学者が「高麗時代に世界最初の金属活字が誕生した」とナショナリズム的応酬をする。このやりとりに対し,中国の学者は「はなはだ滑稽」と言わんばかりであったという。両国がどう権威づけようが印刷術は中国によって発明されたのである。

グーテンベルク印刷術の役割

では,なぜグーテンベルクの印刷術の発明が高く評価されるのか。ちょっと旧聞になるが,20世紀末に千年紀の出来事トップ100をライフ社が選んでいる。そのトップこそがグーテンベルクによる印刷術の発明であった。そのあとにアメリカ大陸の発見,ルターの宗教改革,産業革命と続き,印刷術とともに「三大発明」といわれる羅針盤,火薬がトップ10にランクインしている。ちなみにインターネットはトップ100にも選ばれていなかった。千年紀末に起きたことで,まだ評価も定まりようがないということかもしれない。
 グーテンベルクの印刷術がもたらしたものは,単に印刷産業が発達したという経済的側面だけではない。ライフ社のリストで3位となった宗教改革も,印刷術の普及により聖書が大衆の手に渡るようになったからだといわれる。印刷術と出版文化は社会改革や近代国家誕生の基盤になったのである。
 それに対し,中国(明)の出版文化には,自生的に近代国家を誕生させるパワーがなかった,というのが井上先生のお話であった。
 ところで,大学生へのクイズの件であるが,引っかけ問題にしたつもりだったのが,予想外の展開になってしまった。驚いたことに誰もグーテンベルクの名を知らないのである!印刷術の発明なんて今の大学生にとっては一般常識ではないということか。
 さらに,メディアとは単なる産業ではなく社会変革であるとして,「従来,人手により書き写された貴重な聖書が,印刷術により大衆の手に渡った。その結果もたらされた歴史に残る社会改革とは何か」と質問したのだが,結果は言いたくもない。まあ,どこの大学かも書かないけど。