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「なぜ書くのか」と多くの作家は問われ,また自問する。それは作家が書くことを生業としている宿命のようなものである。書かなければ生活できないが,さりとて生活のためだけに書きたくはない。
 確か「生涯お金のために原稿を書いた」と皮肉たっぷりな墓標を自ら残した西洋の作家がいた。いったん作品を発表してしまえば,作品は独り立ちして読者の手の中にある。もはや作者が,どうコメントしようが釈明しようが他者の評価にさらされている。逆に言えば,金のために書こうがなかろうが作品の価値には変わりがない。おそらく冒頭の墓標銘は自虐的な反省からではなく,作品に対する強靱な自信の現れだろう。

一握りの生業としての著述家

毎年6万点を超える本が刊行されている。その中でいったい何人が書くことだけで生活しているのだろうか。経済評論家が本を書くのは名刺代わりだし,ビジネス書や実務書の著者も主たる収入源は別に確保しているはずである。
 まして教科書,学術書の著者は教員や研究者である。本を書くのは研究発表のためもあり,さらに業績評価にもなっている。人文社会系の大学では共著と論文を1点とすると,単著では倍の2点と数えることが多い。一方,理工系では論文の評価が高く本は低い。おそらく前者が引用に基づく文献調査やテキストクリティックが重視されるのに対し,後者は新発見,発明による理論化,抽象化作業だからである。
 その結果,理学系の研究者は工学系の技術者に対し,「実験すれば論文が1本あがる」と批評するし,工学系は人文社会系に対し「鋏と糊で人の文章を書き写せば仕事になる」と思っているし,人文社会系は理系に対し「自分たちは数百頁は書かなければいけないが,理系は数枚でよいのだから楽」という。それもこれもお金のためではなく業績のためである。業績を「名誉のため」と言い換えればもっとわかりやすい。
 欧米の理工学書の多くは出版社に著作権が譲渡されている。日本でも学術団体へ論文投稿した場合,著作権が譲渡される。それどころか投稿料すらかかる。学会はインセンティブとしてお金ではなく名誉を渡している。
 現時点では,紙で出版されたというのは厳然たる名誉であるがネット上では評価が低い。とはいえ本の名誉を担保にして,ウェブで公開するというのでは,あまりに著者の身勝手である。

米国eラーニング調査

ちなみにこの原稿は,ニューヨーク発のアムトラックの中で書き,ボストンからメールしている。テロの影響でアメリカ国内空港のチェックは厳しく,アトランタ空港のトランジットで乗り遅れた。そのこともあってボストンまでは電車移動。利用したアムトラックのファーストクラスはテーブルが広く,すべての席にコンセントがあった。日本の新幹線もモバイルユーザーのために全席コンセント付きにしてほしい。
 何でアメリカに来たかというと,MITのOpenCourseWare(すべての講義教材のオープン化)やコーネル大学のカスタムパブリッシング調査のためである。よく知られているようにアメリカの知的所有権管理は大変厳しい。その代わり契約してお金さえ払えば,ちゃんと使わしてくれる。つまりすべてがビジネスにつながっているのである。一方,アメリカ国民の絶妙なバランス感覚が,その対局としてオープンソースやコピーレフト(フリーウェア)運動を支持するのである。
 前者の例がコーネル大学における教科書のPODであり,後者がMITOCWである。OCWについては,昨年に計画が発表されたとき,このコラムで取り上げている。MITを訪問して担当教授に会うのは念願だった。
 それ以外にWebCTや大型書店など盛りだくさんの訪問先ですが,その報告は次回です。