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かつてワープロ専用機は創作のためのツールというよりは,ただの清書機にすぎなかった。ワープロ原稿の多くは,手書きしてからワープロ入力し,紙出力を原稿としていた。悪筆な著者ほどワープロ導入が早かったようで,その陰には大学の助手,会社の部下,ときには奥さんの存在を感じることもあった。
 ワープロ専用機のフロッピーディスク(FD)は専用フォーマットであり,変換ツールでテキストデータにする必要があった。このあたりは編集者より,印刷会社の営業マンや「印刷屋の若旦那」さんが苦労されたことと思う。
 紙出力をくれる著者は,こちらが要求しないとフロッピーディスクをいただけないこともあり,なかにはファイル整理が悪かったり,紙出力とデータが違っている原稿もかなりあった。著者からすれば,手書き原稿の代わりに清書原稿をよこしている訳だから,データという意識が低いのも無理はない。筆をキーボードに置き換えたにすぎないのだから。
 もちろん,初めて執筆した手書きの原稿が活字で美しく整えられてゲラとなったときは,誰もが組版のすばらしさに感心し,出版社(印刷所)に感謝したはずである。あの頃,原稿は出版社によって初めて価値ある形をとれたのである。逆に言えば,著者が自分の手元で活字化した原稿を読めるようになった時,執筆に対する意識変化は芽生えたのである。

文字情報処理への従属

その後,ワープロ専用機は衰退し,今はパソコンの全盛である。入稿されるファイル形式は,テキストデータを基本にWord,一太郎ファイルはもとより,TeXやDTPソフトで組んだPDFも多い。もはや「FD入稿」は死語で,データ入稿の一手段にすぎない。書籍原稿の場合,数式,外字,図版,ルビと様々な理由で著者の手による紙出力は不可欠なのだが,お願いしないと紙出力がもらえなくなった。
 注目すべきは,このパソコン利用への転換期である。これを境に原稿という概念が紙からテキストデータに換わったのであり,大げさに言えば,書くという行為が文字情報処理に従属したのである。同時に印刷組版の一部で文字情報処理を行っていたのが,主客逆転し,印刷組版が文字情報処理産業の一部になったともいえる。

著者の意識変化

今は,コンテンツという言葉が表すようにテキストデータに価値を見いだすネット時代である。ワープロ専用機の登場以上に,データ入稿は出版社と著者の間にも変化をもたらした。水面下でおこっていた変化の流れは,今や大きなうねりとなって表面化している。
 はじめの現象は,「私(著者)が組版したのだから,本の定価を下げるか印税を上げろ」といった発言である。数年前に一部の職業作家が好んで発言したが,所詮,ワープロ原稿である。ピント外れの御託もいいところである。むしろ問題は,著述業を生業としていない大多数の書き手の中にあった。
 具体的な体験を書こう。テキストファイルで原稿をもらい,何度かの校正のやりとりで修正が入り出版にこぎ着けた。刷り上がったばかりの本を著者に届けたとき,相手はこういうのである。「最終的なテキストデータを印刷所から返してもらえますか?」。面食らいながら,念のため「何に使うのですか」と聞くと,まるで当然のように「私のホームページに全文を載せる」と言うではないですか。唖然として「そんな事したら本が売れなくなりますよ」と言うと,「もともと,そんなに売れないし,(執筆の労力に見合った)お金はもらえないでしょう」と,切り返すのである。
 これは,かなり多くの専門書編集者が体験している問題である。そして背景にある著作のインセンティブについて考える必要があり,あとは次回です。